■所在地 / 佐々町古川免城ノ辻  ■創建者 / 紫加田氏 ・松浦隆信  ■年 代 / ??
■形 式 / 砦 ■標 高 /216m ■遺 構 /堀切・平場・曲輪


城の歴史

鳥屋城は古くは南北朝の頃から、志方川流域に水田を開き今の千人堂付近に館を建て居住していた佐々氏の一族、紫加田氏の所領でした。そのころ、館に対する番城として鳥屋城を築いたのではないかと思われますが、今のところそれを確証する文献はありません。
戦国史で鳥屋城が脚光を浴びたのは、東光寺山城と同様、永禄6年(1563)に始まる平戸松浦と相神浦の戦いのときです。「印山記」では、松浦隆信は「一族都合250騎引率して佐々村鳥屋城を本陣に溝へ大野次郎左衛門は東光寺に屯す」として、東光寺よりも鳥屋城を重視して本陣としています。ですが250騎の軍勢、総数1,000人前後の兵を鳥屋城に収容することは物理的に不可能と思われ、ここでいう鳥屋城は、その城下志方の集落一帯を指すのかもしれません。いずれにしても敵である相神浦の飯盛城を監視できるこの地域に平戸勢の前線基地が置かれたことに変わりはありません。

みどころ

県北の山城のなかでは比較的に標高の高い城跡で、山頂周囲の地形も険しく、志方集落から椎葉谷を経て山頂に至る登山路と、近年整備された、山頂か北方の尾根沿いに遊歩道が通じている他に道はなく、急斜面と断崖によって人を容易に寄せ付けない場所です。
本丸は山の頂上の東西15メートル×南北25メートルを削って平場をつくり、西側6メートルの崖下には半円状に帯曲輪を張りだし、帯曲輪の北側では狭い出曲輪につながっています。出入口は本丸平場の北西隅にあり、30メートルの急坂で下りさらに北方に曲がって、椎葉谷に下る城道につながっています。
城の辻を下って隣の前岳(195m)に上る尾根の鞍部には、幅2メートルの堀切りがあって守りを固めています。
本丸跡の平場にはかつては砂岩の柱穴や礎石(そせき)が見られ何かしらの建造物があったことを証明するものでしたが、現在は昭和45年に建てられたアンテナ塔により、覆い隠されて見ることができません。ですが稲荷社や地蔵堂の祠、昭和13年建立の記念碑などがアンテナ塔の脇に場所を押し合うように建てられています。
このようなことから本丸跡とはいうものの、とうてい人が長く住めるような場所ではないため、居住地は麓に置き山頂には砦のような見張り台か狼煙台があったのではないかと思われます。そのことをうらずける証拠になるのかは分かりませんが、この山の麓一帯には古い年代の石塁があちらこちらに見られ、それらが居住跡という可能性もおおきく、まだまだ多くの遺跡が眠っている可能性が高い調査が必要な場所です。


補 足

鳥屋城についても、東光寺城と同様の「佐々古川 鳥屋城図」があり、山頂に『竪十二間、横八間二尺』(縦21.8m横15.1m)と書かれた本丸平場が描かれ、周囲の険しい山容と前岳、三尊岳、椎葉谷、山麓の古川や紫加田の村名が記されています。現在の本丸平場の大きさとほぼ変わらず、寛政時代の作図でありながら現在の地形図と大差ない、かなり正確な絵図といえます。

急斜面の険しい山道を登って山頂にたどり着くと真正面に相浦富士とも呼ばれるキレイなカタチをした愛宕山がそびえたっています。1563年飯盛城攻めの際に平戸の松浦隆信はここに砦を築きました。麓の佐々の町から飯盛城があった愛宕山までの道筋が手に取るように分かる眺望で見張り台をおくには絶好の場所です。まるで飯盛山と鳥屋城はお互いが、にらめっこしているような位置関係で隆信がここに砦を築いた訳がよく分かる気がします。
難攻不落の飯盛城隆信はいったいどのような気持ちでココに立ち飯盛山を見ていたのでしょうか。

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