■所在地 /針尾中町 ■創建者 /針尾氏 ■年 代 /???〜???
■形 式 /城館 ■標 高 /25m ■遺 構 /土塁・空堀・平場・建物跡・遺物


城の歴史

築城年代は定かではないですが、古くから針尾島を支配していた針尾氏によってたてられたと思われます。針尾島は古くより南部を支配する針尾氏と北部を支配する佐志方氏の領土争いが絶えない地でした。天文年間(1500年頃)佐志方氏は針尾氏との争いに敗れ島を追い出されてしまいます。ところが針尾氏は敵対していた平戸松浦氏が武雄の後藤氏と手を結ぶことになると、佐志方氏を呼び戻し、それまで友好関係にあった大村氏と敵対することになります。
その後、平戸松浦氏後藤氏の関係が悪化すると、佐志方氏はふたたび追い出されてしまい、平戸松浦氏を頼っています。
針尾氏は、今度は平戸松浦氏に敵対したのですが、1572年(元亀3)頃に平戸松浦氏が針尾氏を攻めて、針尾伊賀守(いがのかみ)の次男針尾三郎左衛門(さぶろうざえもん)は戦死し、三男の針尾九左衛門(きゅうざえもん)は針尾島を追われ、西彼杵半島に拠点を移します。針尾氏はこのとき針尾島を失ってしまい。二度と戻ることはありませんでした。
針尾氏は、少なくとも400年の間、針尾島を領した小領主であったのですが、戦国大名の大村氏や平戸松浦氏が力をつけていくなかで、ついには島を追い出されてしまったのです。
針尾氏や佐志方氏のような小さな武士一族は戦国大名が支配地を拡大していくなかで、次々と連携相手を変え、戦国大名たちの勢力のバランスを利用しながら、何とか自分たちの勢力を保とうとしていたのです。

みどころ

城内に入るには城の背後に回りこむように小道を登り、墓地のわきを通って入ります。足を踏み入れると、まず、大規模な空堀跡が行く手をさえぎります。深さ2メートルもの空掘は佐世保では最大級のものですが、創建当初は3メートルを超えていたといわれています。城を半円で囲むように造られた2重の空堀を上り下りすると崖の上に出ます。下を見下ろすと、人工的に山を削り取って造った東西30メートル、南北25メートルの平場が広がっています。ここに針尾氏の館が建っていました。
海岸に面した南側は切り立った崖になっていて標高25メートルの落差があります。
今では、たくさんの木々が視界をさえぎっていますが、当時は木々は伐採されていて、見晴らしは良く、館から望めば、庭の向こうに広がる輝く瀬戸の海がよく見えていただろうということを、今でも想像することができます。
針尾城は、2004年に発掘調査が行われています。
発掘では、北半分の山側に建物跡が検出されました。約300を超える柱穴があるのは、幾度かの建て替えがあったことを示していますが、まだ詳細は分かっていません。海側の南半分は前庭になっていたようです。出土した遺物は、火鉢や杯などの土器、碗や皿、壺などの陶磁器、鉄瓶や刀、銭貨などの金属器、引きうすや硯(すずり)といった石製品など4000点に及んでいます。
陶器は、備前周防、九州系のかめやすり鉢がありましたが、圧倒的に朝鮮、中国、タイからの輸入陶磁器が多いようです。時代的には13世紀から16世紀後半までとなり、約400年の間、針尾氏がここを拠点にしていたことを示しています。特に輸入陶磁器の多さは、当時の針尾氏が、海外との交易を行っていたことを物語るものです。
城跡の南前方には、針尾瀬戸が望まれます。多少防備に不安を残す場所に城を構えたのは、針尾瀬戸を通過する船から城が見えるようにした演出と考えられています。

補 足

針尾氏は1563年(永禄6)に起こった「横瀬浦事件」により世界史の舞台に登場します。当時、横瀬浦(西海市)には日本最初のキリシタン大名となった大村純忠(おおむらすみただ)洗礼名:ドン・バルトロメウによって、ポルトガルとの貿易港が置かれていました。当時の針尾氏の当主、針尾伊賀守(はりおいがのかみ)はこの横瀬の奉行を務めていました。ところが、武雄の領主である後藤貴明(ごとうたかあき)と共謀して、純忠の招きで横瀬浦から大村へ向かう外国人宣教師たちを針尾瀬戸で襲ったのです。
危うく助かった宣教師の一人、ルイス・フロイスは著書の「日本史」で、針尾伊賀守を「ハリボウ」と紹介し、「大村の海がきわめて潮の流れ激しく狂奔(きょうほん)する海峡のそばに城を構えていた。」と記録しています。これが針尾城です。

平場跡
空掘跡
石塁らしき跡
  海上からの遠望
 
 
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