おさよ観音 

平戸松浦と宗家松浦の戦いは平戸から養子として九郎親(くろうちかし)を迎えることで宗家松浦は事実上の降伏をする。
そのため有馬から宗家松浦の次期当主として養子で来ていた五郎盛(ごろうさこう)は有田の唐船城へ追いやられる形となった。納得のいかない五郎盛は有田の重臣達と飯盛城攻めの計画を練った。
このことを知った宗家松浦の古くからの家臣山本右京は5歳の子と妊娠中の妻オサエを連れ、雪のなか西ノ岳を越えて相浦へと急いだ。峠を過ぎてオサエは転んだ拍子に産気づき、助けられた木こりの家で子を産んだ。この間に右京は相浦まで急ぎ五郎盛の謀反を知らせたあと急いで西ノ岳に引き返したがオサエは産後の出血が止まらず帰らぬ人となっていた。

山本右京の知らせにより準備を整えることが出来た平戸・相浦軍は柚木の相当ヶ原で五郎盛の軍勢を迎え撃ち、勝利した。その後、オサエの死をふびんに思った人々は、オサエのために小さな祠を建てて供養するようになったという。現在では安産の神様として人々に親しまれている。

<レポート>


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